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「田園にいれば私の不幸な聴覚も私をいじめない。そこでは一つ一つの樹木が私に向かって『神聖だ、神聖だ』と語りかけるようではないか?森の中の歓喜の恍惚!」
(ロマン・ロラン著「ベートーヴェンの生涯」の「手記」から)

 独立メディア塾 編集部

 1994年12月1日、ベートーヴェン(1770年12月16日頃~ 1827年3月26日)の遺髪がサザビーズのオークションにかけられ、2人の米国人が3600ポンドで落札した。「ベートーヴェンの遺髪(ラッセル・マーティン著)」によると、遺髪を鑑定の結果、モルヒネやアヘン剤の使用は認められなかった。神経梅毒やモルヒネ中毒も死因の有力な説だったが、長さ10~15センチの遺髪はその可能性が小さいことを示した。

 遺髪は全部で582本、うち160本が鑑定用、422本はサンノゼのベートーヴェンセンターの貴重品保管室に収められた。オークションで落札した2人の目的は、遺髪がどのような経緯で競売にかけられたのか、遺髪の数奇な運命をたどること。そして毛髪の科学的な分析によってベートーヴェンの病気を解明することだった。

 ベートーヴェンが死ぬ直前、フェルディナント・ヒラーという少年がピアノと作曲の師と共にベートーヴェンを見舞った。死の直後にも駆けつけ、そこで偉大な作曲家の髪を切り取ることを許され、はさみを使って引き抜くように切った。
 それから60年後の1883年、ヒラーは息子のパウル・ヒラーに誕生祝いとしてこの髪をプレゼントした。ヒラー一族はユダヤ人だったためナチの迫害を受けた。その後、一族はベートーヴェンの髪とともに行方は不明になり、髪は1943年、デンマークで見つかった。
 1994年12月1日、サザビーズで半年に一回開かれる書籍と楽譜のオークションで、髪を買った1人はアイラ・ブリリアント。宅地開発業者の彼は熱狂的なベートーヴェンファンだった。
 ブリリアントはサンノゼ州立大学と1983年に「ベートーヴェン研究所」の設立に合意し、それまでに収集した初版の楽譜や手紙などを寄贈していた。
 もう1人はあの有名な革命家チェ・ゲバラと同姓同名の医者。生まれ故郷の町で、毎年ベートーヴェンの誕生日にパーティーまで開くベートーヴェンファン。そのパーティーにブリリアントも招かれ、知り合った。
 髪は全部で582本。うち422本はベートーヴェンセンターに。ゲバラ医師が分析用と個人用に160本。
 鑑定では痛み止めのモルヒネの含有量はゼロだった。モルヒネやその他のアヘン剤も投与されなかったことについて、検査した1人は「臨終のときは苦しかったと思う。モルヒネを使っていたら創作活動はできなかった」と証言した。また別の検査関係者の「水銀濃度が検出されないほど低かった」という証言から、一部で広がっていた梅毒説も否定された。さらにベートーヴェンの病気のかなりの部分が重い鉛中毒によって説明できることも分かった。

 なぜ重度の鉛中毒になったのか。「ワインの甘味料として使われた酢酸鉛」が原因とする説が有力なのだそうだ。当時のヨーロッパでは大量に発注される安物のワインには酢酸鉛が使われていた。ベートーヴェンはハンガリーのトカイ周辺地区で生産される安価なトカイワインを愛したという。倉原優医師(国立病院機構近畿中央呼吸器センター)は「ベートーヴェンは凄い!」(三枝成彰編著)で「晩年、安いワインをガブガブ飲んで作曲していたのかもしれない」と想像している。

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