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「文化勲章の名前が大きすぎる。自由でいたい。なんでもなくいたい。ただ芝居を芝居をしていたいだけ」

 独立メディア塾 編集部

 日本を代表する舞台女優、杉村春子(1906年=明治39年1月6日~ 1997年=平成9年4月4日)は1995年の文化勲章を辞退した。(10月27日、朝日新聞朝刊)。11月3日の宮中伝達式では遠藤周作、団藤重光らが受章した。
1937年、岸田国士、久保田万太郎らが創立した劇団文学座の結成に参加。1945年4月、東京大空襲下に初演された森本薫作『女の一生』は、1990年に84歳になるまで演じ続け、上演回数は947回を数えた。『欲望という名の電車』のブランチ役も上演回数593回。

 杉村春子が愛した3人の男

 「『四、五日したら、また帰ってきますからね』って、気持ちを引き立てるようにベッドの石山に言って、病室を出るときもういっぺん振り返ってみたら、石山は向こうを向いていました。あたし、行ってもういっぺん顔を見ようかしらと思ったけど、思い切って出たんです。石山と会ったのはそれが最後になりました」(杉村春子著「振りかえるのはまだ早い」から)
 「杉村春子は三人の男を愛した。愛されもしたが、よりつよく、むさぼるように愛した。そして男たちは死んだ。杉村春子にタマシイを吸われたのであろうか」(新藤兼人著「女の一生 杉村春子の生涯」から)
 「三人の男」とは最初が1933年に結婚した5歳年下の慶應大学出身の医学生、長広岸郎。1942年に結核で亡くなった。二人目が愛人で『女の一生』などを書いた劇作家の森本薫。森本も1946年に結核で亡くなった。1950年に10歳年下の医者、石山季彦と結婚したが、1966年に結核で亡くなった。
 「石山と会った最後…」の言葉は、病状が悪化した石山を残して「欲望という名の電車」の公演で小樽の初日にいくことを決めたときのこと。「石山は死ぬ。私がそばについていても死ぬ。わたしは何ものだ、役者だ、石山もそれを知っている、ならば、わたしはお客さまが待っているところへ行かねばならぬ。長広のときもそうだった、森本のときもそうだった。客が待っている」(「女の一生 杉村春子の生涯」から)
 「何故、あの時石山を一人置いて旅に出てきてしまったのでしょう」(「自分で選んだ道」から)と悔いを書いた。
 1995年、文化勲章授章決定の内示を受けたが、「勲章を背負って舞台に上がりたくない」「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」と辞退した。没年91歳。(ウィキペディアから)

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