記事応募にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

「結婚をしないで、なんて私は馬鹿だったんでしょう。これまで見たものの中で最も美しかったものは、腕を組んで歩く老夫婦の姿でした。」

 独立メディア塾 編集部

 グレタ・ガルボ(1905年9月18日~1990年4月15日)はスウェーデン生まれのハリウッド女優。
 無声映画の時代からの国際的女優。『肉体と悪魔』(1926年)の後、初のトーキー映画『アンナ・クリスティ』(1930年)に出演。その後も『グランド・ホテル』(1932年)、『アンナ・カレニナ』(1935年)、『椿姫』(1936年)、『ニノチカ』(1939年)などに出演。1941年、36歳の時に「奥様は顔が二つ」を最後に、突然引退した。終生、独身を通した。

 歌舞伎を連夜観劇

 グレタ・ガルボは「終始一貫内にこもりがちな、口数の少ない――したがって無声映画にはうってつけだった――人間であり、映画デビューの当初から拒絶によって自己を規定してきた女優だった」(「グレタ・ガルボその愛と孤独」アントーニ・グロノヴィッツ著から)
 ガルボはニューヨークで歌舞伎を見て、中村歌右衛門の魅力にとらわれ、楽屋に花束を贈り、連夜観劇したという。淀川長治は「男のようなガルボは(略)女として画面の中で生きることにいかに苦しんだのか。それゆえにこそ、女になりきった日本の歌舞伎の女形にガルボは演技の美術をくみ取ったのであろうか」と記している。(「グレタ・ガルボ マレーネ・ディートリッヒ 世紀の伝説 きらめく不滅の妖精」から)
 「晩年のガルボは一生の大部分を間違って生きたと感じていたように思われる」
 ガルボ自身は「パリ、ロンドン、ローマ、ニューヨークの路上ですれちがう人々は、もう私に気がつかない。(略)それなのにわたしの映画はいまだに世界じゅうの映画館で上映され、テレビで放映されている。でもそれは精神的にも金銭的にもわたしとは何の関係もない」
 彼女は1951年にアメリカ市民になることを決めた。きっかけは新聞が「アメリカで何百万ドルという金を稼ぎながらこの国を愛していない」と非難したことだ。国籍を変えた時、彼女は新聞記者に向かってこう言った。
 「アメリカ市民になれてしあわせです。ほかの何百何千万という移民のみなさんと同じくらいしあわせです」
 この発言は移民の国アメリカの多くの国民に好評だった。(「グレタ・ガルボその愛と孤独」から)
 1941年「奥様は顔が二つ」というお洒落喜劇が最後の出演作になった。ガルボ36歳。
 「オードリー・ヘップバーン物語」の著者バリー・パリスはヘップバーンと並べてガルボについて次のように書いている。
 「映画の偉大な女神たちのなかで、マリリン・モンローとエリザベス・テイラーだけがオードリー・ヘップバーンよりも<ライフ>の表紙に登場した回数が多く、ガルボだけが彼女よりもハリウッドから超然としていた」。

コメント投稿にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

こちらのコメントを通報しますか?

通報しました