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「歯は一本だけになり、時々痛み、奈良漬も食べかね候」

 独立メディア塾 編集部

 伊能忠敬(1745年2月11日~1818年5月17日)は、江戸時代の商人、天文学者・地理学者・測量家。17年をかけて全国を歩き日本地図を作った。1800年4月19日、55歳の時に江戸を出発して「蝦夷地」、現在の北海道の測量に向かった。その日を記念して、4月19日が「地図の日」になった。「最初の一歩の日」とも言う。
 表題の言葉は1812(文化9)年11月8日(推定)、年が明ければ69歳になる忠敬が島原城下から出した書簡。(別冊太陽「伊能忠敬」の忠敬書簡抄から)。

 サラリーマンの鏡

 忠敬は初めて日本列島を科学的に測量し、正確な日本地図を作った。歩いた距離は4万キロと言われている。日頃の訓練により自分の歩幅が常に一定になるように気を付けていた。歩幅は約69cm、体格は、着物の丈が135cmであったことから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推測されている。作家井上ひさしは小説「四千万歩の男」で、2歩でピッタリ6尺、つまり1歩の歩幅は91センチ程度だった、としているが、歩幅が広すぎる、という指摘がある。
 忠敬がすべて歩幅で地図を作ったわけではなく、天文学などを利用した成果だった。
 忠敬が定年退職を控えたサラリーマンの見本として注目されたのは経歴による。18歳で伊能家の養子になり、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた名家をさらに繁盛させたが、50歳で隠居した。驚くべきことは、かねてから関心を持っていた暦学の勉強に、この年で全力を投入したことだ。
 幕府の天文方だった高橋至時(よしとき)に弟子入りを申し込んだ。忠敬が51歳。至時のほうは32歳。子供と同じ年に近い至時のもとで天文、暦、測量、天体観測を学んだ。
 当時の暦は中国の暦だったため日食や月食が暦通り起きないといった不都合が起きていた。正確な暦を作るためには地球の大きさなどを割り出さなければならない。ヨーロッパの学問に目を開き、忠敬の「第二の人生」が始まった。
 測量は細心の注意で行われた。身体が鉄分を帯びると磁石に支障があるので、測量作業中は刀は差さなかった(渡邊一郎著「伊能測量隊まかり通る」)。
 至時の息子は景保。父の跡を継いで天文方になるが、有名なシーボルト事件を起こす。シーボルトから外国の地図や学術書を譲り受ける代わりに、忠敬が作った日本の地図を渡してしまった。
 忠敬の親友だった幕府の測量師、間宮林蔵が告発し、景保は捕らえられて獄死した。

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