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「マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」

 独立メディア塾 編集部

 寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)日本の歌人、詩人、劇作家、映画監督と様々なジャンルで前衛的な活動をした。演劇実験室「天井桟敷」を主宰。表題の短歌は18歳の時の作品。
 (寺山修司「空には本」から)

 シャイで人の目を見て話せない男

 寺山修司の葬儀では、天井桟敷のメンバーが寺山の遺言ともいえる音楽劇「レミング~世界の涯まで連れてって~」の一節を唄って送り出した。
 一番最後でいいからさ
 世界の涯てまで連れてって
 世界の涯てまで連れてって

有名なエッセーといえば「書を捨てよ、町へ出よう」。
 1969年、天井桟敷に入団したカルメン・マキのデビュー曲になった「時には母のない子のように」は寺山修司が作詞をした。
 劇団「天井桟敷」は1967(昭和42)年1月1日、横尾忠則、東由多加、九條映子らと結成。4月18日、草月アートセンターで旗揚げ公演『青森県のせむし男』を上演。6月、新宿末広亭で第2回公演『大山デブコの犯罪』。アートシアター新宿文化で第3回公演『毛皮のマリー』。同作に出演した美輪明宏は、この頃の寺山を「あまりにもシャイで、人の目をみて話せない男」と評している。
 死因は肝硬変と腹膜炎のために敗血症となったこと。かつて結婚していて、離婚後も付き合っていた女優の九条映子は「戒名は付けないことにしました。位牌は白木のまま、それがあなたの心に添うものだと思ったからです」と述べた。
 寺山自身も「週刊読売」(1983年5月22日号)のエッセー「墓場まで何マイル?」で「墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば充分」と書いた。
 寺山は、井伏鱒二の名訳「サヨナラダケガ人生ダ」(7月10日参照)を受けて「幸福が遠すぎたら」と歌っている。


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