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「書物を焼くものは、早晩、人間を焼くようになる」

 独立メディア塾 編集部

 ハインリヒ・ハイネ( 1797年12月13日~1856年2月17日)。
 ナチが政権を取り、ヒトラーが首相についた1933年の5月10日、宣伝相のゲッペルスは、ベルリンを始め全国すべての大学所在地のナチ党員に対して、国立・私立の図書館に侵入し、追放された著者の書物を街頭に放り出すように命じた。ベルリンでは焚書の儀式が行われたが、黒焦げになった書物の1ページに焚書された著者の1人、ハインリヒ・ハイネの文章が残っていることに誰も気づかなかった。1823年、ハイネが記したように「書物を焼くものは、早晩、人間を焼くように」なった。
 (「第三帝国と宣伝 ゲッペルスの生涯」から)

 大学生が書物を焼いた

 ナチによる焚書の儀式はゲッペルスが「終生償うことができない大失策」になった。あらかじめ選んでおいた書物が燃やされた。追放された著者はユダヤ人、ユダヤ教徒であり、共産主義者だったりした。夕方になると大学生たちが松明(たいまつ)を手にして集まり、野蛮人のように叫びながら踊りまわった。

 「ハインリヒ・ハイネを焼け」
 「ジグムント・フロイドを焼け」
 「カール・マルクスを焼け」
 「エーリヒ・ケストナーを焼け」

 ベルリンでは燃え上がる炎がオペラハウスとベルリン大学を照らし出した。ゲッペルスはラジオで全国放送し、「過激なユダヤ主義的主知主義」の終焉(しゅうえん)を宣言し、こう続けた。
 「今日ほど青年が発言権を持った時代はかつて無かった。今や学問は栄え、精神は目覚めつつある。この灰の中から、新しい精神が不死鳥のように舞い上がるであろう」
 しかしゲッペルスは焚書の儀式について控えめに新聞に載せるように命じた。焚書はナチの身内からも批判された。世界の世論は運動に大打撃を与えかねなかった。不安だったにちがいない、と「第三帝国と宣伝 ゲッペルスの生涯」(ロージャー・マンヴェル、ハインリヒ・フレンケル著、樽井近義、佐原進訳)は指摘している。


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