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◇「行列の行きつくはては餓鬼地獄」
◇「黒幕の影からいよいよ角を出し」

 独立メディア塾 編集部

 萩原朔太郎(1886年=明治19年11月1日~1942年5月11日)は詩人。「月に吠える」で衝撃のデビューを飾った。以後、現代詩の先頭を走り続けた。表題の言葉は、肺炎を患い重態になった晩年、枕もとの手帳に書き留められていた「無気味ともいえる俳句もどきの言葉」だ。辞世の句だったのだろうか。(野村喜和夫著「萩原朔太郎」、山田風太郎著「人間臨終図巻」、赤瀬川原平監修「辞世のことば 生き方の結晶」、渡辺和靖著「萩原朔太郎 詩人の思想史」から)

 別離した母は蔑むように見つめた

 「私はいつも孤独である。言語に絶えた恐ろしい悲哀を私一人でじっと噛みしめて居なければならない」。(散文詩・詩的散文の「言はなければならないこと」)
 朔太郎はマンドリンを愛し、手品を愛した。晩年の52歳になって「アマチュア・マジシャンズ・クラブ」に入会した。入会後はどんな用事も差し置いて、和服に着替え、早目に出かけたという。長女・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」によると、子供のころ父が目の中から紙を取り出すのを見て、思わず「痛いからだめ」といったことがある。葉子(1920年=大正9年9月4日~2005年7月1日)は、小説家、エッセイスト。
 朔太郎の書斎の机の上に「手を触れるべからず」と書かれた紙が乗せられていた。書きかけの原稿かと思ったらそれは「手品のタネ明かし」だった。2階の書斎の引き出しという引き出しはすべて鍵がかかっていたが、中身は手品の道具ばかりだったという。
 しかし朔太郎の家庭生活は必ずしも恵まれていたとは言えない。葉子は父・朔太郎が亡くなって13年目、父と離婚した実母の行方探しを始めた。母と別れて25年もたっていた。友人に当たったりしたが見つからず、NHKの「尋ね人」で放送もしてもらった。やっと、札幌で再会できたが、母は別人のように老いていた。思い切ってまっすぐ母の顔を見た瞬間、母の顔にさげすむような表情がいっぱいに浮かび「あんたは、まるで萩原そっくりの嫌な顔じゃないの!」。突き放すような冷たい響きだった。
 朔太郎は1941年12月8日、朝日(タバコ)をすいながら「とうとう戦争が始まったのか」と暗い顔で言った。そのころから健康はすぐれず呼吸に苦しむようになり、翌年5月、酸素吸入器をわきに置いて亡くなった。


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