記事応募にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

「稽古日数を十分とること」

 独立メディア塾 編集部

 京マチ子(1924年3月25日~2019年5月12日)はデビュー2年で国際派女優に躍り出た。主演の「羅生門」(黒沢明監督)は1950年公開、「雨月物語」(溝口健二監督)は1953年、同じ年に「地獄門」(衣笠貞之助監督)が公開され、海外の映画祭で次々と受賞し、国際派女優として戦後の日本を代表する女優になった。

 現代、徳川、平安、天平、時代を超えて自在に

 京は戦争中は大阪松竹歌劇団で踊っていた。戦後のニューフェース募集の中で女優として誕生。谷崎潤一郎の「痴人の愛」(1949年)で演じた「ナオミ」は「戦後」を象徴する、解放された女になった。 「細雪」(1959年)、「鍵」(1959年)などの谷崎作品でも主演することが多かった。
 その谷崎が京について書いている。京都の孫娘に会ったとき、孫娘は京都で流行っているという歌を歌っていた。

 「キーシ、キシ、キシ、岸恵子
 ハイアに乗るのは長谷川一夫
 京都美人の京マチ子
 三人揃って佐田啓二」 

 「京マチさんは大阪生まれのはずだが…」と首をかしげながらも、谷崎は京マチ子の顔を絶賛した。「現代、徳川時代、平安時代、天平時代、いずれにも向く」と。さらに「『春琴抄』の京マチ子は自分が夢に描いていた幻影そのまゝの姿であった。田中絹代の『春琴抄』もなかなか優れていたけれども、自分の夢の中の美女が、生きて出て来た、と云ふ点では京マチ子のものに及ばない」と無条件でほめている。この記事の見出し自体が「美しさにため息」。(1961年10月5日付け朝日新聞朝刊「女優さんと私」)
 仕事一筋の京の生活について脚本家の花登筺(はなと・こばこ)は次のように激賞している。
 「一編の台本を得てからは、一切の私生活から去り、自らホテルに閉じこもり、その役の研究に没頭しているという。(略)果たして、こんな事の出来る女優が何人いるであろう。(略)この執念が演技を創り、いや演技さえ超越して、まず観客の心を打つ」(1964年3月22日付け朝日新聞)
 1964年、京が初めてテレビドラマに出た時のことを、脚本を担当した水木洋子が書いている。フジテレビの「あぶら照り」に出演するにあたり京は1つ条件を付けた。「稽古日数を十分とること」。安易な番組作りが多いテレビに対する「抵抗」だったと水木は見ている。(「ユリイカ」令和元年8月号・川本三郎)
京マチ子が生まれた1924年3月25日の2日後に高峰秀子が生まれた。淡島千景も1924年生まれ。原節子はそれより早い1920年生まれだが、敗戦後の日本映画を支えたスターが相次いで誕生した時期だ。

 真に国民女優であるはずなのに…

 「美と破壊の女優 京マチ子」の筆者、北村匡平は次のように指摘する。「時代劇から現代劇、娯楽映画から文芸映画、芸道物から犯罪スリラー、喜劇から悲劇へと、京マチ子は変幻自在に姿を変えて、観るものを魅了する」「だが、残念なことにその魅力が全く語り継がれてこなかった」。
  その結果だろう。日本の映画女優ベストテンなどを見ても、京マチ子はなかなか上位にランクされない。四方田犬彦は次のように言う。
 「日本における国民女優とは、やはり原節子から吉永小百合へと向かう路線上にしか現れ出ない。それは男を破壊する女であってはならず、常に清楚なる処女でなければならないからだ。その意味で京マチ子と真に比較すべきなのは、もう一人、けして国民女優とはよばれることのない美貌のスキャンダル女優、李香蘭(注)であるように、私には思われる」。(「ユリイカ」令和元年8月号)
 北村は著書「美と破壊の女優 京マチ子」の「あとがき」を「世紀の大女優・京マチ子さんへ捧ぐ」と結んでいる。
(注)李香蘭(1920年=大正9年2月12日~2014年9月7日)は、日本人の歌手、女優、政治家。中国、満州などで活躍。帰国後は山口淑子の本名に戻った。参議院議員にも当選した。


コメント投稿にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

こちらのコメントを通報しますか?

通報しました