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「私は宿命的に放浪者である」

 独立メディア塾 編集部

 林芙美子(1903年=明治36年12月31日~1951年6月28日)の代表作「放浪記」の書き出し部分。林は自伝的作品や詩集「蒼馬を見たり」など多数の作品を残した。森光子の主演で芝居にもなった「放浪記」は1961年10月20日に芸術座で初めて上演され、以来、2009年5月29日まで2017回目公演された。

 森光子が朗読した「花のいのちはみじかくて」

 林は1928(昭和3)年から1930年にかけて「放浪記」の副題を付けて「秋が来たんだ」の連載を開始。ベストセラーとなる。書き出しに、明治の唱歌「旅愁」の紹介がある。
 「私は北九州のある小学校で、こんな歌を習ったことがあった。更けゆく秋の夜、旅の空の 侘しき思いに 一人なやむ 恋しや古里 なつかし父母」
 アメリカの歌を翻訳した明治の唱歌「旅愁」だ。英語の歌詞も故郷と母親を夢見る歌詞だ。そして「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」と続いていく。
  芙美子は多くの男の間を放浪した。旧家の息子、新劇俳優、詩人、新聞記者など。1931年、28歳のときに青年画家と結婚した。
 また様々な職業を経験した。「放浪記」で流行作家になるまで、貧しい生活のなかで工場のアルバイト、女中奉公、カフェの女給…。
 日中戦争の開始直後の1938(昭和13)年、従軍作家として漢口一番乗りを果たし、戦争に協力した作家とみられるようになった。
 井上ひさしは林芙美子を主人公にした戯曲「太鼓たたいて笛吹いて」で、「私の本棚」という番組のアナウンサーに次のように言わせている。
 「林さんほど、たくさんの批判を浴びつづけた小説家は珍しいでしょう。文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、シナ事変から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました」。
 しかし、戦後の6年間は違う、と井上は言う。
 「戦さに打ちのめされたわたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書き続けた6年間でした」。「弱った心臓をいたわりながら徹夜の連続…その猛烈な仕事ぶりは、ある評論家に、『あれは緩慢な自殺ではなかったか』と言わせるほどでした」。
 林は連載記事のために銀座で料亭をハシゴし、帰宅後に苦しみだして翌日心臓麻痺で死亡した。47歳。
 「明治快女伝 わたしはわたしよ」の著者、森まゆみは「いつ文壇から蹴落とされるかわからないという恐怖が、乱作もさせたし、競争心をもつのらせた。養子にもらった子を、学習院に入れることに汲々とする。そういう成り上がり的なところばかりが死後、深く印象づけられた」と書きつつ、銀座で遊んだ後、あっけなく倒れて死んだ芙美子を、こう評価する。
 「岡本かの子もそうだが、勢いのあるときの作家というのは多作であっても駄作が少ない。林芙美子には読みつがれるべき作品は多く、また『放浪記』の正直な初々しさを私は愛する」。

 「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かれど」

 この言葉(詩)は林の言葉として有名になった。女優の森光子が舞台の冒頭でこの一節を朗読したことや映画「浮雲」のなかで使われた。しかし「放浪記」や「浮雲」には見当たらず、出典は不明だったが、後年、「赤毛のアン」などの翻訳者、村岡花子氏の遺族宅で全文が発見された。林芙美子自筆の原稿が額に入れられていた。林自身が好んで色紙などに書いていたという。


ーーーーーーー  「花のいのち」の全文ーーーーーー 

 風も吹くなり 
 雲も光るなり
 生きてゐる幸福(しあわせ)は
 波間の鴎(かもめ)のごとく
 漂渺(ひょうびょう)とただよい

 生きてゐる幸福は
 あなたも知ってゐる
 私も知ってゐる
 花のいのちはみじかくて
 苦しきことのみ多かれど
 風も吹くなり
 雲も光るなり


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