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「一生涯、私は大道芸人」

 独立メディア塾 編集部

 ギリヤーク尼ケ崎(1930年8月18日~)は、日本の大道芸人、舞踊家。日本国内だけでなく、世界の街頭で、ふんどし1つで踊りつづけた。1968年10月26日、38歳の尼ケ崎が初めて街頭で踊ったのは銀座の数寄屋橋公園だった。踊り終わると拍手が起き、カンパの箱にお金が入る音がした。300円くらいかと思っていたら1,500円もあった。帰ろうとすると二人連れの女子高生が何かを手渡した。手を開けると50円玉が一つ。帰りのバスで50円玉を握りしめるとうれしくて涙が出た。この時「投げ銭だけで生きていく」と大道芸人で生きる覚悟を固めた。
(「『鬼の踊り』から『祈りの踊り』へ」「鬼の踊り 大道芸人の記録」ギリヤーク尼ケ崎著から)

 「『鬼の踊り』から「祈りの踊り」へ」で、次のように書き始めている。
 「ぼくの舞台は街頭です。青空の下、踊り続けて50年近くになります(略)85歳になるきょうまで投げ銭だけで生きてきたんですよ」
 函館市の菓子屋で生まれた。使用人60人、市内に売店が4つある裕福な家だ。映画館にお菓子を持っていくようになって、映画俳優にあこがれたが、役者には向かない、と1957年、舞踊家としてデビューした。
 しかし稽古場もない、弟子もいない。研究生の募集に応募はゼロ。アルバイトでしのぎながら「大道芸人」の道を進むしかなかった。
 車置き場の警備員などをしながら、踊りをつづけた。
 「2018年秋には88歳で、芸歴50周年を迎えます。路上で踊ることはいけないと、これまで警察に捕まること78回になりました。79回目に捕まる時は何処で踊ろうか、実は決めています。」
 しかし彼の消息はその後わからない。(ご存知の方は教えてください。健在ならば91歳)
 母は尼ケ崎を大事にしたらしい。ニューヨークに行ったとき、かけていた保険を解約して旅費を作ってくれた。そして一度も私の踊りを、見ることがなかった母のために、私は自分で作った映画の中で、母のために踊った。
 外国でもパリ、アムステルダム、モスクワ、インド、中国…・いろいろなところで踊り、2002年には米国の同時多発テロで亡くなった人の霊を慰めるためにニューヨークで踊った。「じょんがら一代」など、彼の作った作品は「津軽三味線をひく芸人をイメージしているが、意味はない」。ただ感動を与えたい、それだけだ、と言い切る。
 その間、心臓にペースメーカーを入れた。歯も総入れ歯に変えた。

 「僕の一番の楽しみは、カンパしたお金を数えること。いくら『芸を極めたい』と言っててもこれ、大道芸人の本音。これまで、東京の新宿では1996年に78万円もいただいた」。
 ギリヤークの命名は、ロシアサハリンの先住民族であるギリヤークに似ているため。

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