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「エノケンが出演しただけで歌舞伎を愚弄したとは何事か」

 独立メディア塾 編集部

 黒澤明(1910年3月23日~1998年9月6日)は日本を代表する映画監督。「生きる」「羅生門」「七人の侍」「用心棒」などの作品を監督、国際的な賞を多数獲得した。表題の言葉は黒沢監督の「虎の尾を踏む男達」が検閲官に呼ばれ、エノケンの出る歌舞伎は歌舞伎を愚弄するものだ、と詰問されたことへの反論。この時、日本政府による検閲は連合国軍による検閲に移っていたが、非合法作品として扱われ、しばらく上映されなかった。(黒澤明「蝦蟇の油」から)9月6日は黒沢の命日。

 「虎の尾」が順調に撮影中に、日本は敗戦を迎えた。撮影現場に米兵も顔を見せるようになった。「日本刀で切られるところを撮ってくれ」という注文まで出るようになった。
 あるとき、将官や高級将校の一団が入ってきて、撮影を見学して帰っていった。後日、ジョン・フォードにロンドンで会った時、「あの時、お前によろしく、と伝言を残したが、それを聞いたか」と言われ、黒沢はびっくり仰天する。伝言どころか、ジョン・フォードが来たことさえ知らなかった。「蝦蟇の油」に掲載された写真の説明によると、二人が初めて会ったのは、「昭和22年」 (1947年)らしい。黒澤はフォードを尊敬し、「駅馬車」などの作品から影響を受けた。
 強い照明で目を傷めたフォードの助言で黒沢もサングラスをかけるようになったという。

 東京五輪を撮るはずだったが

 1960年、日本オリンピック組織委員会から64年の東京五輪公式記録映画の総監督の依頼が来た。「第九 歓喜のカンタービレ(桜井知子企画・編集)」によると、黒沢は開会式で聖火が点火される瞬間、「歓喜の歌」がスタジアム上空の気球に仕掛けられたスピーカーから鳴り響く演出を考えていた。しかし製作費が市川崑監督の2倍にもなるということで市川監督に代わった。堀川によると、当時、黒沢は「残念そうに『オリンピック記録映画、代々一流の監督は手掛けないんだそうだ』といった。どうも東宝側は、そいう手を使ってクロさんを断念に追い込んだようだ」。
 「カンタービレ」によると、黒沢は「赤ひげ」で「第九」のモチーフを貫かせ、ラストシーンで「第九」に似た堂々たる楽曲を演奏させた。

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