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「囚人番号203はおらんか」

 独立メディア塾 編集部

 天野芳太郎(1898年=明治31年7月2日~1982年10月14日)は大正、昭和の実業家、アンデス文明研究家。30歳で海外移住を決意、パナマで天野商会を設立した。1941年、日本がハワイの真珠湾を襲い、米国と開戦したため、パナマ政府に抑留された。表題の言葉は収容所で呼ばれるときの番号。翌年、交換船で帰国したが、戦後、再びペルーに戻った。戦後、事業を再興するとともに古代アンデス文明のチャンカイ文化の研究に没頭した。1964年、天野が収集した文化遺産をもとにペルーの首都リマに天野博物館が開設された。(天野芳太郎著「わが囚われの記」から)

 「日米開戦」は真珠湾攻撃が行われた1941年12月8日ということになっているが、天野は7月10日にさかのぼるべきだという。この日、米国は日本船のパナマ運河の通行を禁止した。ルーズ―ベルト大統領は真珠湾攻撃の知らせを受けると「運河は安全かどうか」質したエピソードを紹介している。
 12月7日(日本時間8日)には、天野の家に武装警察官十数名が踏み込み、店員ら全員を囚人護送車で連れ去った。天野は家族を日本に帰していたが、パナマの日本人全員が監獄に入れられた。
 首都パナマで天野は13年、商店を開いていた。それ自体が米国政府の注意をひいていた。さらに眺望のいい郊外の山の中腹に家を建てたのでパナマ湾と運河の入り口まで一望できた。「ニューヨークタイムス」が「なぜ日本人天野に運河の見えるところに家を建てさせたのか」と批判記事を書いた。
 天野には米国が疑ってかかる材料がほかにもあった。コスタリカの港で漁業会社を持っていた。日本人16人が日本の優秀なディーゼルエンジン船に乗り組み、鮪漁業をしていた。これもスパイ船ではないかと米国は神経をとがらせた。さらにチリでもチリ第一の軍港が丸見えの場所で一千町歩の農場を経営していた。天野の道楽は写真撮影。米国で発行された本に、この男こそ日本人スパイの巨頭、と書かれたこともあった。

 収集品を天野博物館に寄贈

 戦争がはじまると、天野ら日本人は女も子供も移民収容所に入れられた。男は労働をさせられ、殴られたり蹴られたりの生活だった。天野の囚人番号は「203」。スパイ扱いされて収容所では大物として過酷に扱われた。
 1942年、交換船で日本に帰国し、戦後の1951年、ふたたびリマにもどり、インカ漁業会社を設立した。
 アンデス文明はインカの時代にスペイン人の侵入で滅んだ。南米に愛着を持つ天野は「もし、だました方(スペイン)が文明であり、正しいと言うなら、何をかいわんやだ」と言い、遺物を通じてインカ文明への敬愛の念を深めていった。
 天野は1972年に収集品をすべて財団法人天野博物館に寄贈した。天野の経歴について「解説」(増田義郎)を引用すると、秋田県出身。工業高校を卒業後、横浜で就職し鋳物工場を作ったが、大正12年9月1日、関東大震災で被災、天野は父に代わって5人の兄弟の面倒を見なければならなくなった。横浜で饅頭屋を開いて稼いだという。

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