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「歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい、ひとりでいることはさみしいけれど、ひとりで歩き、ひとりで飲み、ひとりで作っていることはさみしくない」

 独立メディア塾 編集部

 放浪、漂泊の俳人、種田山頭火(1882年=明治15年12月3日1940年10月11日)の日記から(昭和5年10月20日)。

 泥酔して市電の前に立ちはだかった

 自由律俳句の俳人で代表作「分け入っても分け入っても青い山」は1926年に行乞(ぎょうこつ)の旅に出た時の作品。表題の句は二度目の旅の日記から。
 生家は大地主だったが、11歳のとき、母親が自殺、38歳で妻子を熊本に残して上京。「関東大震災(1923年)」で焼け出されて熊本に戻ったが、42歳の時に、泥酔して市電の前に立ちはだかって急停車させた。生活苦による自殺未遂という見方がある。
 この事件を機に禅寺(曹洞宗報恩寺)に入り、出家した。「大正15年(1926年)4月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」。宮崎の県境を越えて高千穂に向かう途中、代表句が生まれた。
それから放浪と酒の日々は3年にわたった。托鉢(たくはつ)だけが収入源という貧乏生活。僧形で一軒一軒の門口に立ち米や銭をもらう生活。金子兜太は「種田山頭火」の中で「托鉢にみえて、実際には物乞い」と書いている。空き瓶や蓋を拾って食器代わりに使った。
 1930年、二回目の行乞の前に、それまでの手記をすべて焼いた。
 「酒、酒、酒、酒、酒、……遊びすぎた、安易になりすぎた、友情に甘えすぎた」(5月11日~15日)
 1940年10月10日は山頭火を中心にした俳句結社「十六夜社・柿の会」の例会の日だった。夕方、同人が集まってきたが、山頭火はすでに寝ていたという。夜、句会が終わっても山頭火は寝たまま。心配した同人が夜中に様子を見に来たが、すでに死んでいた。
 「しみじみ死をおもう、ねがうところはただそれころり往生である」(1938年1月10日)という希望通りの死だった。

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