記事応募にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

戦争真っただ中 名古屋での小学校生活 2/8

  松尾 英里子 / 白鳥 美子

 卓球を始めたのは、終戦直後までさかのぼる。当時、父親の仕事の都合で金沢暮らしだった禮子さんは、雪深い北陸の冬の日々の中で、卓球場に友人たちと入り浸るようになった。  「最初はみんなでワイワイ遊んでいたんだけど、だんだん自分がいちばんうまくなっていったんです」
 もともと、体を動かすのが大好きな女の子だった。
 「男の子の後ろを追いかけて、一緒にセミや蝶々を追いかけていました。木登りなんかもしてましたね。結構、お転婆でした」
 父親が転勤族だったので、小さいころから各地を転々とした。
 「一番印象に残っているのは、小学3年生の時に引っ越した名古屋ですね。」
 当時は戦時中の、「いちばんひどい時だった」。
 真珠湾攻撃で日本が開戦した12月8日(1941年)にちなんで、8日は大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)と定められていて、小学校ではその日の朝礼で教育勅語が読まれた。その間中、ずっと立ったまま聞いている。貧血を起こして、何度も「バタンと倒れた記憶がありますね」と振り返る。憲兵が小学校に来ることもあった。児童を横に並ばせて、号令をかける。子どもたちは「1、2、3…」と順に声を出すことを求められるが、「声が小さい!」と怒鳴られて、男の子は頬を殴られることも多かったという。  「怖くて、怖くて。今でも忘れられません」
 戦地に出ている兵隊さんに送る慰問袋の中に入れる手紙を書かされたのもその頃だ。「私はあんまり想像力がないから、何を書けばいいのかわからなかった」という禮子さんは、「兵隊さん、ありがとう」とだけ、毎回書いていたという。


名古屋に行く前の三鷹の自宅前での家族写真

 当時の名古屋は、夏は暑く、冬は氷点下の気温だった。家の外にはコンクリートで作られた防火用水桶があったが、冬になると、上から10センチほどが凍ってしまう。子ども心に「これじゃあ役に立たないな」なんてことを考えていたというから、年齢の割に冷静なところもある女の子だったようだ。名古屋の小学校では、一時的に戦況がよかった頃、一か月ほどの間だけ給食が出た。
 「食パンがひと切れ、なんです。ありがたかったけど、バターも何もつけない、焼きもしないで、そのまま食べるの」



コメント投稿にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

こちらのコメントを通報しますか?

通報しました