疎開先は、福島 雪の中を足袋に下駄ばきで登校 3/8
 松尾 英里子 / 白鳥 美子
名古屋から疎開する前の家族写真
小学校6年生の時に、福島市の母親の実家に疎開した。
「これは、縁故疎開と呼ばれていました。妹は、少し後に集団疎開へ。そして、双子の弟たちが母と一緒に父親の実家に疎開して、名古屋には父一人が残りました」
戦争中、都市部の子どもたちが親と離れて地方に疎開したという知識は持っていたが、兄弟姉妹もバラバラになったと聞いて驚いた。福島では、母親の母校で、作曲家の古関裕而さんの出身校でもある福島女子師範学校付属小学校に通うことになった。
「ここでは、軍人勅諭というのがあって、これを暗唱させられました」
ネット検索で探してみると、旧仮名遣いで書かれた、結構な長文だ。
「我が国の軍隊はよよ天皇の統率し給うところにそある…って、前文から始まって五か条まで。長いんですよ」と笑う宮川さんだが、今も最初の一節は自然に口をついて出る。「同級生たちは、みんなスラスラ言えるんだけど、途中から転校してきた私は、覚えるのが大変でした」
大変だといえば、冬の寒さだ。名古屋も寒かったが、福島はさらに寒く、しかも、雪深い。
「外套なんて持っていないから、叔父の来ていたマントを借りて、小学生なのに真っ黒なマントを着て学校に通っていました」
長靴も持っていなかったから、足袋を履き、下駄を履いて雪の中を歩いた。学校行事で山登りがあった日は、先生から「それでは山道は歩けないから行かなくていいよ」と言われて、一人、教室で留守番したこともあった。
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