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「今日は何にする?」 風呂屋帰りに父が聞く 1/6

  松尾 英里子 / 白鳥 美子

日本橋生まれ。生家は竹ぼうきや亀の子たわしのような日常生活に必要な雑貨を取り扱う問屋だった。活気のある店内には、いつも人が溢れていた。
「おばあちゃんも一緒だったし、親戚の男の子も預かっていたから、もともと大所帯の家族。その上、若い番頭さんも3人いたから、ごはんの支度に追われる母は毎日とても大変でしたね」
朝ごはんは、3回、食卓につく人が入れ替わり食事をする。同時にお弁当も作る。夜まで同じ状況ではとても身体が持たないと、夕ご飯は「毎日外食だった」そうだ。
「一緒に風呂屋に行った帰り道に、『今日は何にする?』と聞いてくれる父の声を、今もすごく覚えています」
近所の人形町は色街なので、出前のニーズが高く、洋食屋も鮨も中華も、おいしいお店が揃っていた。妹たちも母も合流して家族で外食を楽しんだ。
だが、当時は戦争中でもあった。
昭和20年3月の東京大空襲で自宅が焼けてしまったのは、洋(ひろし)少年(木久扇さん)が小学校一年生の時だった。
「今でもはっきり覚えているのは、毎晩、夜が明るかったこと」だという。
灯火管制が敷かれていた頃だから、もちろん「電燈」の明るさではない。街が、燃えているのだ。その場所は、毎日変わる。今日は茅場町だ、今度は向町のようだ、と噂が飛んだ。
「ウクライナの戦争の情景をテレビで見ると、だからとても切ない。あの頃と同じだなあって」
家は焼けてしまったが、家族は皆、無事だった。父の采配で、洋さんは母親と妹たちとともに高円寺の知人の留守宅に逃れていた。地域の警防団の団長だった父だけは、東京大空襲の日も日本橋にいたが、辺りがめらめら燃え盛る中で、自宅向かいの久松小学校の防火水槽に飛び込んで炎を逃れたという。
「翌朝、お母さんがご飯を炊いているときに、自転車に乗ってお父さんが戻ってきた。火で目が焦げちゃって、真っ赤。僕と妹たちは、泣きながらお父さんに抱きつきました」




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