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戦争が「普通の生活」だった 1/7

  松尾 英里子 / 白鳥 美子

1936年(昭和11年)月、千葉市で生まれた。生まれた10日後に226事件が起きる。徐々に大きくなる戦争の足音とともに育った幼少期だった。

千葉師範附属国民学校に入学したのは、1942年(昭和17年)。先生たちからは、常に言葉にしなくとも、「どこかに軍国主義というか、みんな立派な兵隊さんになって国のために尽くそう」という教えが感じられたという。それでも「戦争の中の生活っていうものに、それほどの違和感がないわけですよ。これがごく普通の生活だと思ってるからね」

ある日の授業中、空襲警報が鳴った。訓練してきた通りに、急いで松の並木の下の堀割のようなところに逃げ込み、頭を抱えてしゃがみ込んだ。そのときだった。突然、バリバリバリと物凄い音がした。見上げると、目の前を米軍機が通った。続いて、ババババ・・と銃声が響く。機銃掃射を受けたのだと、すぐにわかった。あまりに近くで大きな音がしたので、「誰かがやられた」と思った。
国民学校の敷地内、100mから200mほど離れたところには、師範学校があった。師範学校といえば、本来ならば将来、教師となる人材の育成のための学校だ。しかし当時は戦時中。陸軍の部隊が駐在していた。米軍機はその部隊を狙っていたのだ。敵機が去ったあとの庭には、たくさんの弾痕が残っていた。

こうして生活の中にも戦争が足を踏み入れるようになってきた。もしもに備え、消火訓練をすることもあった。久能さんも、子どもながらに手に火消し用のハタキを持って加わった。

一番古い記憶を聞くと、「親父とおふくろと一緒にハイヤーで旅行に行ったこと」という。車に揺られ山の中の道を走っていると、母の具合が悪くなった。そこでハイヤーを降りて、父が母を介抱した、というシーンだ。大人になって母と話すと、どうやら、南房総を旅行したときのことだとわかった。しかし、驚くのは、その旅行は久能さんがまだ2歳の時のこと。「え、なんでそんなこと覚えているの」と、その記憶力に母も驚いたそうだ。具合が悪かったのは車酔いではなく、その年の秋に生まれた妹を妊娠しており、悪阻の気持ち悪さだったようだ。「そのことだけは、妙に記憶に残っているんですよ」



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