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父の出征と、蚕小屋での疎開生活 2/7

  松尾 英里子 / 白鳥 美子

1944年(昭和19年)のある日、医師であった父親にも出征令状が届く。
父は、家を離れるまでの間に、庭の柿の木の下に防空壕を作ってくれた。残された家族4人全員が入れるような穴を、黙々と一人で掘る父。出征することについても何も言わなかった。そしてまた、久能さん自身も「僕には特別な考えはなかったのね。戦時中だったらやむを得ないっていうか、当然国のためには仕方ないと思っていた」と語る。
 
父の出征先がどこなのか、子どもたちは知らなかった。ただ、戦地から時々届くハガキの消印が、どうやら上海あたりらしいと知らせてくれた。手元に届くハガキはほとんど墨で消されていたが、少なくとも元気に生きているらしいということは伝わってきた。
 
1945年(昭和20年)3月10日。東京大空襲。
住んでいた千葉市からも、東京湾の向こうが真っ赤になって猛烈に燃えているのが見えた。母は「もう疎開しなきゃダメだと思う」と、父に手紙を書いた。
 
すぐに父から返事が届いた。「長野に友達のお医者さんがいる。そこを訪ねなさい」という内容だった。大部分はいつものように検閲で墨塗りされていたが、そこだけは消されずに残っていた。そして5月、一家は長野県中郷村(現 飯綱町)牟礼に疎開。蚕小屋の隅にあるわずか6畳のスペースで、母と子ども3人の新しい生活が始まった。
 
とにかく生活は大変だった。お風呂やトイレは大家さんに借りた。洗濯するにも水道などない。
それでも子どもには楽しい場所だった。
 
夏は川で魚を獲った。近くの鍛冶屋さんがヤスを作ってくれた。秋は山に分け入り、きのこや栗を探した。冬はスキー。もちろん当時はスキー板など手に入らないから、竹を真っ二つに割って、先端を丸く削り、鼻緒をつけて、まるで下駄のような手作りのスキー板で滑った。雪国の冬の運搬作業には馬ソリが欠かせないが、そのソリが作るツルツルの雪面を滑るのも楽しかった。「見つからないようにソリに捕まってさ」と、久能さんは少年の顔になってにやりと笑う。
 
もともと、1学期間、満足に出られないくらい体が弱かった。でも、小学校の4年から6年まで野山を駆けずり回って過ごしているうちに「元気になって、病気しなくなっちゃった」。長野は、今も自分のふるさとのように想う、大切な場所だ。



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