ゲスト様

2019年9月号

歴史的分断とともに生きる人々 〜北アイルランドを訪ねて〜

在英ジャーナリスト 小林 恭子

 「北アイルランドに、また出かけてみなければ」。
 今年春、筆者は強い思いに駆られるようになった。
 英領北アイルランドを初めて訪れたのは、2003年頃。英外務省による外国報道陣を対象とした視察旅行に参加した時である。以来、10数年ぶりの訪問だ。
 アイルランド島は12世紀から隣国英国(当時はイングランド王国)の支配下に置かれたが、1916年の武装蜂起(「イースター蜂起」、英軍に鎮圧)、1919-21年の独立戦争を経て、22年、南部が英連邦内の自治領として独立を果たした(49年、アイルランド共和国に)。
 しかし、カトリック教徒が大部分の南部とは異なり、プロテスタント教徒が多かった北部の6州はプロテスタント国英国の一部としてとどまることを決めた。それが現在の北アイルランドだ。この時の線引きが、約100年後の現在も続いている。

  カトリック住民とプロテスタント住民

 北部6州では、プロテスタント系住民が過半数、カトリック住民が少数派という人口構成が長く続いた。政界や警察など支配層のほとんどをプロテスタント住民が占め、カトリック住民は差別的待遇を受けてきた。
 1960年代になると、米国の公民権運動(黒人市民が人種差別の撤廃と憲法で保障された権利の適用を求めて展開した運動)からヒントを得て、カトリック市民による差別撤廃の抗議デモが発生する。治安維持のために出動した警察とデモ参加者が衝突し、これが激化して警察の手に負えなくなった。そこで英本土から軍隊が派遣され、北アイルランドに常駐するようになった。それぞれの宗派を代表する民兵組織が敵対する相手側にテロ行為や武力抗争を行った。北アイルランドとアイルランドの国境には英軍による見張り台や検問所が設けられた。


高くそびえる「平和の壁」(ベルファストで)

 紛争の根は帰属意識の違いによる。プロテスタント住民は英国への帰属維持を志向し、英国人としてのアイデンティティを重視する。カトリック住民は南のアイルランドにより近い帰属感を持つ人が多く、中にはアイルランド島全体の統一を願う人もいる。政治、領有権、宗教、ナショナリズムが入り乱れる複雑な対立である。
 30年近く続いた「北アイルランド紛争」(死亡者は約3700人)は、1998年の「ベルファスト和平合意」によって終わりを告げた。アイルランドは北アイルランドへの領有権を放棄した。
 和平合意から、すでに21年となる。もはや住民は宗派の違いによるテロ行為、暴力事件、過度の警備に毎日怯える必要はない。
 しかし、宗派の異なる住民同士の帰属感や将来像の違いは存在する。
 筆者が社会の分断を目前にしたのは、03年当時、視察バスで主都ベルファスト市内を回った時だ。ところどころにカトリック住民の居住地を表すアイルランド共和国の旗やプロテスタント住民の居住地を示すイングランドの旗(白地に赤十字)が掲げられていた。
 両方の旗が掲げられている広場を小学生ぐらいの子供が突っ切って歩く様子が見えた。銃を構えてこちらを向く民兵組織の男性たちを描く壁画も市内各地にあり、「こうした旗や壁画を毎日見ながら、学校に行くのか。一体、どんな考えを持つ子供に育つのか」。筆者は衝撃を感じざるを得なかった。暴力行為を奨励し、相手に対する憎しみを増大するだけではないか、と当時思ったものである。

  届かない「残留支持」の声

 3年前の国民投票で、英国は欧州連合(EU)からの離脱を決定した。離脱予定日は19年10月31日。離脱を巡って、北アイルランドとアイルランド共和国との国境問題が大きく注目を浴びることになった。
 物理的な国境がまたできることになれば、過去の暴力の記憶がまたよみがえってくるに違いなく、英メディアは「暴力の再来の懸念」を頻繁に報道するようになった。
 国民投票で、北アイルランド住民は「残留支持」を選択し、英国全体の「離脱支持」とは逆の結果となったが、北アイルランドの残留支持派の声は国政の場にはほとんど届かない。
 というのも、下院で過半数の議席を持たない保守党政権は、北アイルランドの地方政党でプロテスタント系の民主統一党(DUP)(下院で10議席を持つ)に閣外協力を頼んでいるが、この政党は強硬離脱派だ。その対抗政党となる、カトリック系のシン・フェイン党は残留支持だが、アイルランド島の統一を望み、「英国の女王陛下に忠誠を誓わない」方針のため、ウェストミンスター議会には登院していない。英国民が北アイルランドを代表する政治の声として聞くのは、もっぱらDUPの離脱強硬派の声のみになってしまう。
 2017年まではDUPとシン・フェイン党による自治政府が機能していたのだが、再エネルギー問題を巡って対立し、空中分解してしまった。再開に向けての政治的努力が続いているところだ。

  元受刑者による刑務所ツアー

 主都ベルファストの通りを歩くと、EUの旗(青地に複数の星)をあちこちで見た。改めて、北アイルランドにはEU残留支持者が多いことが分かる。
 紛争時に民兵組織のメンバーが収監されていた刑務所は、人気が高い観光ツアーの1つになっている。
 4-5時間の長丁場となる「クランムリンロード刑務所ツアー」に参加してみると、北アイルランドのこれまでの歴史の短編映画を視聴後、元民兵組織のメンバーが近辺を案内してくれた。
 最初の案内は、プロテスタント系武装集団「アルスター義勇軍」(UVF)のメンバーだった、ロバートさん。UVFの活動で投獄されたが、ベルファスト合意の恩赦によって釈放された。がっしりした体格で、坊主頭に近いほど頭髪を刈り込んでいる。
 ツアーの参加者は筆者を含めて数人いたが、だれもロバートさんが具体的に何をしたのかは聞かなかった。
 ベルファストには、カトリックとプロテスタント住民の居住地を柵(「壁」=ウォール)で囲む地域がある。その一部は「平和の壁(ピース・ウォール)」と呼ばれている。
 平和の壁の前は、市内ツアーに参加した旅行客がたくさん集まるのがおなじみの光景だ。


平和の壁にメッセージを書き込む観光客

 北アイルランド紛争ばかりではなく、パレスチナ紛争、長年投獄されていた、南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領、そのほか平和のために戦った人々の壁画もある。
 ロバートさんによると、1998年のベルファスト合意で平和の壁はなくなると思ったが、むしろより増えているという。「いつかはなくなるべき、という人が多い。でも、当面はあるべきと誰もが答えるんだよ」。
 プロテスタント地区とカトリック地区をつなぐ道にはゲートが設置されていた。昼間は開いているが、夕方には閉まるという。
 「あの店、見えるかい?魚屋だよ」。ロバートさんが数軒先にある店を指さす。北アイルランド紛争が続いていたころ、カトリック系の武装組織「アイルランド共和軍(IRA)」の若者たちが突然押しいり、「まったく罪がない店主の妻を殺害したんだ」。
 自分自身がUVFにいて、銃を手にしたことは「今でも後悔していない」。自分の家族や友人たちがカトリック系私兵組織に殺害されて、「自分自身も武装組織に入るしかなかった」からだ。
 ツアーの途中で、今度はIRAのメンバーとして活動したことで投獄され、のちにロバートさんのように釈放されたデービッドさんが案内役となった。小柄で、やや長髪だ。「前の人がどんなことを言ったか知らないけど、私は自分が知っていることを話すからね」。
 今度は、UVFやそのシンパによって殺害された住民の追悼記念碑の場所に案内された。こうした記念碑はベルファスト市内各地に設置されている。筆者がほかのツアー参加者と訪れた記念碑は、住宅街の一角にあった。

  「血の日曜日事件」、ジャーナリストの死

 ベルファストから高速バスで2時間ほどで、北アイルランド第2の都市ロンドンデリーに到着する。
 北アイルランドでは、「ロンドンデリー」という呼び名がしっくりこない。法的な名称はロンドンデリーであるものの、もともとは「デリー」であった。
 17世紀から、カトリック住民がほとんどのデリーにプロテスタントであるイングランド人やスコットランド人が入植者として入ってきた。1613年、デリーはロンドンのギルドによる市の設立を反映した名称「ロンドンデリー」に変更された。
 どの呼称を使うかで、その人の帰属が分かる。地元の会話では、デリーが一般的だ。公的な標識や説明文は両方を併記している。

 デリーの近年の歴史を語る上で欠かせないのが「血の日曜日事件」だ。
 1972年1月31日(日曜日)、英軍が公判なしでの拘禁を認める政策に反対する、非武装のデモ参加者に発砲し、最終的に14人が命を落とした事件である。
 事件直後に行われた裁判で英軍は無罪となったが、再調査を行った独立調査委員会(「サビール調査」)は、2010年、英軍による殺害は「正当化できない」と結論付けた。これを受けて、キャメロン首相(当時)が謝罪した。
 事件があったボグサイド地区には、犠牲者を追悼する壁画や資料館がある。
 現場を歩いてみると、「この事件を忘れてはならない、忘れさせてはいけない」という地元の、そして北アイルランドの人々の信念を強く感じた。


「血の日曜日事件」の様子を描く
壁画(デリー)

 今年4月、ここから20分ほど歩いたところにある、クレガン地区で、女性ジャーナリストのライラ・マッキーさん(29歳)が、IRA暫定派の流れ弾に当たって、命を落としている。
これまでの報道によれば、マッキーさんは警察と地元民との小競り合いが暴動に発展する様子を取材していた。そして、IRA暫定派のメンバーが警察に向けて放った弾丸に当たってしまった。
 暴動のきっかけは、地元警察がカトリック系武装組織から武器弾丸を没収するために、民家を捜索したことだ。
 1916年の「イースター蜂起」(英国からの独立を願う市民らによる武装蜂起)にちなんで、デリーでもこれを記念する行進が行われることになっていた。4月18日、行進が暴力行為を生むことを危惧した警察は、武器弾薬が隠されているという情報を基に地域の捜査に乗り出した。この地域の1つがクレガンだった。
 この捜査を不当と見なす地域住民と警察が対立し、若者たちが火炎瓶を警察に向かって投げつけた。午後11時ごろ、後にIRA暫定派とされる男たちが警察の装甲車に向かって発砲。装甲車の近くにいて暴動を取材していたマッキーさんが弾に当たってしまった。
 カトリック住民にとって警察(プロテスタント住民であることが多い)は「敵」だ。 地域住民と警察との対立が時として一触即発状態になることを、マッキーさんの殺害事件は浮き彫りにした。


ベルファストにはマッキーさんの壁画があった

  「統合学校」の誕生と試練

 未来に目を向け、宗派の異なる人々の間の対立を解消したい。そんな思いを持つ親たちが作り上げたのが、北アイルランドの「統合学校(インテグレーテッド・スクール)」だ。北アイルランドでは、宗派ごとに異なる学校に通うの普通だが、その常識を打ち破ろうとした動きだった。
 ベルファスト郊外にある中高一貫校「ラーガン・カレッジ」(1981年)が最初だった。現在までに65校が設置されたが、まだ全体の7%だ。
 設立のために最初に政府が資金を援助することは原則なかったので、親たちや有志がお金を出し合う。一定数の生徒や教師を集め、軌道に乗せるまでが大仕事だ。金融機関による融資もままならず、1992年には、資金集めのために「統合教育基金(IEF)」ができた。
 筆者がこの学校の存在を知ったのは、先の英外務省による紹介だった。この時、資金集め担当者の一人として知り合ったのが、ブライアン・スモール氏だった。
 スモール氏の子供が小さかったころ、「まだ統合学校は存在していなかった」。しかし、宗派の対立を防ぎたいと思ったので、二人の子供のうち、一人をカトリック系、もう一人をプロテスタント系の学校に入れたという。
 筆者が驚いたのは、最後にスモール氏に会った2006-7年ごろと比較して、統合学校がそれほど増えていないことだった。当時も今も、数パーセントにしか過ぎない。
 「カトリック系学校は教会組織が運営しており、教会は新しい学校に生徒を奪われたくないと思っている」ことが大きな理由だという。
 近隣の学校が「生徒や教師を取られたくない」と反対に回ることを避け、インテグレーテッド・スクールの設立を容易にするため、近年は「プロテスタント系学校を統合学校に転換させるという方式を勧めている」。
 スモール氏とともに、東部ニューキャッスルにある統合学校シムナ・インテグレーテッド・カレッジを訪ねてみた。

 カレッジの校長ケビン・ラム氏は、統合学校設立を支援する慈善組織「北アイルランド統合学校カウンシル」の元役員。1994年のカレッジ立ち上げに向けて親や教師らを支援しているうちに、自分が経営する側に回ることになったという。
 「カトリックの子供とプロテスタントの子供を1つの教育の場で学ばせるのが統合教育だが、教会やカトリック学校の関係者は批判している」。
 なぜだろうか?
 「子供の態度や考え方に大人が恣意的に影響を与える、『ソーシャルエンジニアリング』をやっている、というんだよ。冗談じゃないと思う。ソーシャルエンジニアリングと呼ぶんだったらそう呼んでもいい。そうして何が悪いのか、と言いたいぐらいだ」。
 一番頭にくるのは、「エセ統合教育校」という。「エセ」というのは、「統合教育校」という名前を付けているものの、敷地内には2つの学校があり、1つはプロテスタントの、もう1つはカトリックの学校になっているからだ。「朝、校門に入ったら、それぞれ別の学校に行く、というわけだ。これでは意味がない」とラム氏。
 「宗派の異なる学校の生徒が、週に1回互いを訪問する試みもあるが、それだけではじっくり交わる時間がない。同じ場所で、同じ建物で、同じ教室で勉強するからこそ、意味があるのに」。


ケビン・ラム先生

  「第三の道」を探る中道リベラル

 かつては、銃を持ってこちらをみる民兵組織の男性たちを描く壁画が北アイルランドへの来訪者をどきりとさせたものだったが、筆者は今回、将来に希望を抱くようなテーマを描く壁画をベルファストやデリーで散見した。
 デリーのギルドホール広場を背にして、少し坂道を歩いたところにある壁画は、テレビ局チャンネル4が放送した「デリーガールズ」を主題にした。コメディ・ドラマの主人公はデリーの高校生たちで、1990年代、まだ北アイルランド紛争が続いていたころのデリーが舞台だ。
 この壁画を手がけたのが、デリーで生まれた非営利のアート集団「UVアーツ」。イベントで出会ったアーチストの一人は、子供たちに壁画の描き方を教えたり、新しいテーマの壁画を描いたりしていると話してくれた。
 北アイルランドでは住民同士の和解をすすめ、互いに痛みを共有することで理解を深める試みも、継続して行われている。
 その1つが、1992年に小さなコミュニティプロジェクトとした始まった「ザ・プレイハウス」だ。住民同士の自助運営によるプロジェクトで、演劇を通して互いを理解する「シアター・オブ・ウィットネス」(2009-13年)で友人同士となった二人の女性の話を「アイリッシュ・タイムズ」紙(8月14日付)が伝えている。
 北アイルランドは、確実に変わっている。それが如実に現れたのが、今年5月の地方選挙だった。
 2大政党のDUPとシン・フェイン党が落とし所を見つけられずに自治政府再開の見込みが不透明となる中、大きな躍進を見せたのが中道リベラル派のアライアンス党(北アイルランド同盟党)だ。同党は、DUPとシン・フェイン党という2大政党の政治姿勢に同意しない層からの支持を得ている。環境問題を最重要視する緑の党も健闘した。対立する二つの選択肢のどちらかではなく、「第3の道」を志向する人が増えている。
 その誕生当時から分断の種を抱えてきた、北アイルランド。政治家がドタバタしているうちに、市民一人一人の力で先に進んでいる様子が見えてきた。

(写真撮影はすべて筆者)

▽統合教育基金
https://www.ief.org.uk/

▽UVアーツ
https://www.uv-arts.co/

▽アイリッシュ・タイムズ紙記事(8月14日付)
Firm friends: Former republican activist and the wife of IRA murder victim
https://www.irishtimes.com/news/ireland/irish-news/firm-friends-former-republican-activist-and-the-wife-of-ira-murder-victim-1.3985345

▽シアター・オブ・ウィットネス
https://www.derryplayhouse.co.uk/content/article/theatre-of-witness/10

小林 恭子

在英ジャーナリスト

1981年、成城大学文芸学部芸術学科卒業(映画専攻)。
外資系金融機関勤務後、「デイリー・ヨミウリ」(現「ジャパン・ニューズ」)記者・編集者を経て、2002年に渡英。
英国や欧州のメディア事情や政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。
「新聞研究」(日本新聞協会)、「GALAC」(放送批評懇談会)、「メディア展望』(新聞通信調査会)などにメディア評を連載。
著書に『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス(新書)』(共著、洋泉社)、『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『チャーチルファクター』(共訳、プレジデント社)、『英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱』(中公新書ラクレ)

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