東京大空襲の日の記憶 3/9
 松尾 英里子 / 白鳥 美子
昭和20年3月10日、東京大空襲。
「いくらでも眠れる年頃だった」当時中学生の桂さんは、その朝、押し入れで目覚めた。夜中に防空壕に入るのは眠くて億劫だからという理由で、多少なりとも危険回避のために前夜から押し入れで寝ていたのだ。
「起きたときには、まだあちこちが燃えていました」
それでも出かける支度をしていると、母が「まさか学校に行くんじゃないわよね」と驚いた。
「そりゃあ、行かなくちゃ。私はクラス委員長だし、みなさんがどうなっているかを見極める責任もあるから」
そう説得して家を出て小岩駅に着いたが、いつもとまったく様子が違う。屈強な男性ばかりで、女性は一人もいない。当然、子どもの姿もない。見知らぬ男性たちから「何しに来たんだ、早く家に帰れ」と叱られた。だけど、桂さんは引かない。「どうしても田町まで行かなきゃいけないんです」
桂さんが通っていた共立中学は神田にあるが、当時は女子中学生でさえも軍需工場の手伝いに駆り出されていた頃で、田町の沖電気で通信機の部品を磨く仕事を与えられていた。その日、鉄道は両国からの折り返し運転が動いているだけだった。そこまでは歩くしかない。
「3時間くらいかしら、線路の上を歩きました」
地図を見ればわかるが、小岩から平井までの間には2本の川がある。線路を踏み外したら、川に落ちてしまう。駅にいたおじさんたちが心配して、桂さんを挟んで前後に立ち、太いひもを結わえて両方が持ち、万が一に備えながら川を渡してくれたという。
途中、錦糸町駅付近を歩いたときには、上半身が吹き飛ばされて、下半身だけになってしまった馬を見た。母親の洋裁店で見慣れていたマネキン人形がたくさん転がっているのを見て「大きなマネキン人形の工場がつぶれちゃったのね」と思っていたが、途中で、それがすべて空襲の煙で死んでしまった人たちだと気付いたときには、思わずその場に座り込んでしまった。駅の近くの掘割りには、死体の山ができていた。
どうにかこうにか田町の工場までたどり着いたが、「暗くなる前に帰らないと危ない」と先生に言われて、給食を食べてすぐに帰途に就いた。不思議なことに、帰り道の記憶はない、と桂さんは言う。
「三日後に、この日の空襲で級友4人が亡くなっていたこと、焼け出されて地方へ疎開した人がいたことを知りました」
共立女子学園中等部の頃
■桂由美さん プロフィール
東京生まれ。共立女子大学卒業後フランスに留学。1965年、日本初のブライダルファッションデザイナーとして活動を開始し、同年日本初のブライダル専門店をオープン。パリやNYをはじめ世界30か所以上の都市でショーを開催し「ブライダルの伝道師」とも称される。自身の名から命名された「ユミライン」を筆頭に、他に類を見ないウエディングドレスは世界中の花嫁を魅了し続けている。1993年に外務大臣表彰、2019年には文化庁長官表彰を受賞。
https://www.yumikatsura.com/