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特攻隊志願するほどの“軍国少女”から演劇の道へ 4/9

  松尾 英里子 / 白鳥 美子

 戦争末期、「なぜ女は特攻隊になれないんだ」と真剣に訴える手紙を海軍大臣宛に書いて出したほどの軍国少女だった桂さん。8月15日の玉音放送は言葉がよく聞き取れないところもあったが、日本が戦争に負けたことはわかった。
 「そのときは、とても悔しかった」
 すぐに学校が再開したのは嬉しかったが、とにかく、食べるものがまだほとんど手に入らない。授業は午前中だけで、昼食は家に帰ってとるように言われた。
 「一握りほどの配給のお米が、家族4人分。葉っぱを入れて嵩を増しておじやにしてましたね」
 育ち盛りの食糧難はさぞやつらかったことと思うが、それよりももっと悲しくて嫌だったことが2つある、と桂さん。一つは、戦争中に憧れを抱いていた軍人さんたちが、肩章やサーベルなどを外してボロボロになった軍服を着て街を歩いていたこと。もう一つは、闇市の乱雑な汚さ。学校からの帰り道、最寄りの御茶ノ水駅まで歩く途中にはずらっと並ぶ闇市があり、汚い格好をした元・軍人たちがいた。
 「明るいうちに目の当たりに見るのが嫌」という理由で、暗くなる時間まで学校に居座ろうと目論んだ桂さんは、ほとんど使われていない講堂でドラマをやったらどうかと考えて、演劇部を立ち上げた。最初に上演したのは、樋口一葉の「たけくらべ」。級友たちに声を掛けたら喜んで参加してくれた。ちなみに、桂さんの担当は脚本と演出だったが、信如(主人公美登利が思いを寄せる男の子)のお母さん役も演じたという。この公演は大成功、この後、大学を卒業するまで10年間、ずっと演劇部長を務めることとなった。
 実は、桂さんは高校3年生の時に、文学座付属演劇研究所の第一期生に応募して合格している。洋裁学校を継がせたいと考えていた母親は、その合格通知を見て「真っ青になった」というが、一年間だけという約束で研究所に通った。午前中は学校で授業、午後は文学座、あるいはその逆という生活に、「ミス・ハーフ」というあだ名がつけられた。
 一年間が終わり、桂さんの所属していた班の卒業公演をリーダーとして指導したのは芥川比呂志さん、別の班には杉村春子さんがいたというから、何とも贅沢な環境だ。公演後の楽屋で、芥川さんからは「この先どの道を進むにしても、まずは大学で学問をしっかりやって知性を高めなさい」と言われた。その言葉を胸に戻った共立女子大学には、国立西洋美術館の館長も務めた嘉門安雄氏をはじめ、一流の先生方がいた。
「若いときに一流の人に出会えたのは、素晴らしい経験でした」
 そして、大学と同時に夜間の文化服装学院も卒業した桂さんは、母親が始めた洋裁学校の後継者として働き始めることになった。


『たけくらべ』上演後の集合写真/桂さんは上段右から4人目






■桂由美さん プロフィール
東京生まれ。共立女子大学卒業後フランスに留学。1965年、日本初のブライダルファッションデザイナーとして活動を開始し、同年日本初のブライダル専門店をオープン。パリやNYをはじめ世界30か所以上の都市でショーを開催し「ブライダルの伝道師」とも称される。自身の名から命名された「ユミライン」を筆頭に、他に類を見ないウエディングドレスは世界中の花嫁を魅了し続けている。1993年に外務大臣表彰、2019年には文化庁長官表彰を受賞。
https://www.yumikatsura.com/

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