漫画家から落語家へ きっかけはチャンバラのモノマネだった 4/6
 松尾 英里子 / 白鳥 美子
清水崑さんとツーショット
漫画家・清水崑さんのご自宅は鎌倉にあった。3畳の部屋をもらっての修業時代には、お客様へのお茶出しも役目の一つだった。大佛次郎さん、永井龍男さん、小林秀雄さん……。高名な文士たちが近所には住んでいた。
「19歳から22歳くらいまで、お世話になりました」
漫画家としてデビューも果たし、「漫画サンデー」(実業之日本社)で『捕り物太平記』の連載も始まった。だが、あるとき、チャンバラの場面を描きながら口でモノマネをしているのを聞いた清水崑さんが「うまいもんだ」と感心して、「面白いから、落語をやってみたらどうか」と薦めてくれた。落語にはさほど興味はなかったが、「落語もできる漫画家」を目指してみることにした。
「だから、漫画をやめて落語家になったんじゃないのね。今もずっと漫画は描いています」
落語家修業は、三代目桂三木助師匠の下で始まった。初日に、3つの約束をさせられた。
「他の子と電話しちゃダメ、お酒はダメ、絵を描くのもいけないよ」
これは困ったのではないかと思いきや、「漫画は一人で描けるからね、部屋にいるときに描いてました」。清水先生のところでご縁をいただいた出版社の編集者さんたちに頼んで、教科書や参考書に載せるオランウータンや羊などのイラストを描かせてもらい、小遣い稼ぎをしたこともあった。
三木助師匠は、だが、その後すぐに病が悪化し世を去った。葬儀が終わった後、「誰のところに行きたいか」と聞かれて、ふと頭に浮かんだのが林家正蔵師匠だった。
1961年3月、正式に林家正蔵の弟子になり、林家木久蔵を名乗ることとなった。