【新聞コラム特集】
朝日新聞・天声人語(2021年11月12日)
 独立メディア塾 編集部
過去に生きた人物が、小説のなかで肉体と体温を持って現れてくるのは読書の幸福である。作家の瀬戸内寂聴さんが『美は乱調にあり』で描いた伊藤野枝は、自分の気持ちにあまりに正直な女性だった▼文学青年の夫との関係を「水も洩(も)らさぬ自分たちの愛」と感じつつ、別の若者にも惹(ひ)かれる。幼子を抱えながらもアナーキストの大杉栄に、社会正義と恋心がない交ぜの手紙を出す。そんな野枝に、寂聴さんは自分を重ねていたのかもしれない▼戦後すぐ夫と娘を残して家を出て、若い恋人へと走った。「恋人に恋したのか、若い恋人が運んでくる、いきいきした戦後文学のいぶきに恋したのかわからなかった」と随筆にある▼作家として名をなしてから、51歳で仏門に入った。それまで自分の才能を試したいと無我夢中でやってきたのに、言いようのないむなしさを感じるようになったと著書で述べている。小さな尼寺から、小説や随筆を書き続けた▼寂聴さんが99歳の生涯を閉じた。昨年のNHKの番組で語っていた言葉が忘れられない。「作家に余生はない。書くからこそ、空も青いと感じる」。筆を執るのをやめれば、心も震えなくなる。そんな作家の業(ごう)は、読者にとっての幸福でもある▼先月まで続いた本紙連載にこう書いている。「あの世があるのかないのか、訊(き)かれても答えられないが、近頃ようやく『死』は『無』になるのではなく、『他界』に移るような気がしてきた」。他界でもその筆をどうか放さないでほしい。
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