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「何が故国ぞ!なにが日本ぞ!」

 独立メディア塾 編集部

 人見絹枝(1907年〈明治40年〉1月1日~ 1931年8月2日)。日本人女性で初のオリンピックメダリスト。1928年、女性の陸上競技が正式種目になったアムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、800メートルで銀メダルを取った。冒頭の言葉は、それから2年後の1930年、日本国民の期待を一身に背負って参加したチェコでの第3回世界女子オリンピック(注)で味わった悲しみと怒りの言葉。
「人見絹枝 炎のスプリンター」から

 1928年のアムステルダム大会の陸上100mで金メダルの有力候補といわれながら決勝進出を逃した。このままでは日本に帰れない。日本国民の期待を背負った人見は、やむを得ず不慣れな800mに出場、死ぬ思いで2着になった。皮肉にもこれが日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)だった。
その2年前、1926年8月、アリス・ミリア主催の第2回女子オリンピック大会(注)に日本人としてただ一人出場した。走幅跳、立ち幅跳びで優勝。100ヤード走で3位になるなど走る、投げる、飛ぶの各種目で活躍し、人見の名前は世界に知れわたった。
 それから4年後、1930年の第3回女子オリンピックの結果は、走り幅跳び優勝、60メートル3位、やり投げ3位三種競技2位だった。人見自身は「立派にやり遂げた」と思っていたが、待ち受けていたのは「期待外れ」「故国は満足していない」という日本の新聞の非難だった。
 人見は15歳から19歳の若手選手5人を引き連れたリーダー格だった。日本国内の冷たい反応を目にして、こんなことを書いている。「同室の村岡さんは毎日故郷の父母を思い、友を思い、そして自分の渡欧中の成績を思い出しては夢に淋しくないている。あんなに盛大な見送りを受けて出てきているのだから、今、何の土産も持たずに帰ってゆく幼い妹の心中を察してやれば、姉の身の私も自然と涙を口の中でかみしめる外に術はなかった」
 「日本の選手がどこに遠征しても、固くなって実力以上に働けないのは、あまり故郷の人々が勝負にこだわりすぎるからである。罪多き世の人よ!」
 若いころの人見は女子高等師範学校に在学中、三段跳びで世界記録(未公認)を記録するなど注目を集め、「世界のヒトミ」になった。海外遠征のための寄付集め、後輩の指導、講演旅行など、日本の陸上競技の発展に尽くしたが、1931年、女子オリンピックの翌年、24歳で病死。
 「KINUEは走る」の著者小原敏彦氏は「忘れられた孤独のメダリスト」のタイトルを付けた。また雑誌「選択」(2021年6月号)の連載「をんな千夜一夜」第51話で石井妙子氏は、「故国に潰されたアスリート」のタイトルをつけ、「世界中の女性アスリートが、その早すぎる死を嘆いた。『ワンダフル人見』を―」と結んでいる。
(注)1896年にクーベルタン男爵の創意で開かれた第一回オリンピックは、クーベルタンの女性差別の考えで女性の参加は認められなかった。これに反発したのがフランス人のアリス・ミリア。1921年、国際女子スポーツ連盟(略称:FSFI)を組織し、翌年、第一回の女子オリンピック大会を主催した。大会は8月20日の1日だけの大会だったが、米、英、仏を始め5カ国から女性アスリートが参加、11の陸上競技が行われ18人のアスリートが世界新記録を出した。
(「クーベルタンの男子五輪に反発!“女子オリンピック”を創設したアリス・ミリアとは?」から)

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